Masuk翌日――。
「お前の母親について、調べようと思っている」
夕食後に
「お母様を……?」
「ああ。お前の真の父親についてもだ」麗香は何も言わなかった。
「知りたいか」
「……」「お前が望まないなら、調べない」麗香が驚いたように朔を見る。
やがて、胸元で重ねていた指へ視線を落とした。「……怖くない、と申し上げれば嘘になります」
「ああ」「けれど」ゆっくりと顔を上げる。
「知りたいです」
その声に、迷いは残っていた。
それでも麗香は、はっきりと言った。「私が誰の娘なのか。お母様が、なぜ何もお話しにならなかったのか」
「分かった」朔は頷いた。
◇
御影
それから数日。 母の過去については清雅が引き続き調査してくれている。麗香にできることは、日々を過ごしながら待つことだけだった。「小夜さん。そこ、また同じところを間違えておりますわ」「……見なかったことにはできません?」「できません」「麗香姉様の意地悪」「昨日も同じことをおっしゃいました」 夕刻。 いつもの居間で、小夜の漢文を見ていた。 窓から差し込む春の日はすでに傾き、庭の木々を淡い金色に染めている。そろそろ朔も帰ってくる頃だろう。 小夜は渋々と答案へ向き直ったものの、三行も読まないうちに筆を置いた。「でも、不思議ですわね」「何がです?」「麗香姉様のことです」 嫌な予感がした。「その榊原様という方のお話が本当でしたら、麗香姉様って、本当はとても高貴なお生まれなのかもしれませんでしょう?」「まだ何も分かっておりません」「実はお姫様だったりして」「小夜さん」 少し強めに名を呼ぶと、小夜はくすくすと笑った。「冗談ですわ。でも、もし本当にそうでしたら、兄様も大変ですわね」「朔様が?」「知らないうちに、とんでもなく高貴な奥方を娶ってしまったことになりますもの」「まあ」 麗香も思わず笑ってしまう――が。「それに、お二人の間にお子がお生まれになったら――」「……お子?」 笑みが止まった。「はい。兄様と麗香姉様のお子です」「な、何を突然……」「夫婦なのですから、別におかしな話ではないでしょう?」「それは……そうかもしれませんけれど」 頬が急に熱くなる。 三年だけの契約から始まった婚姻に、そんな未来が入り込む余地などなかった。 けれど、今は――。「麗香姉
榊原宗一郎が暮らしているのは、帝都の中心から少し離れた、古い屋敷だった。 華美ではないが、よく手入れされた庭にも、玄関に掛けられた書にも、長く格式ある場所に仕えた人間らしい隙のなさがあった。「御影朔です」 「妻の麗香でございます」 「久世清雅です。先日は突然のお手紙を失礼いたしました」 三人を迎えたのは、白髪の男だった。 年は七十に届く頃だろうか。 背筋は真っ直ぐで、隠居した老人というより、今もどこかの官庁から帰ってきたばかりのような佇まいをしている。 案内された座敷で、榊原はまず清雅と、それから朔へ視線を向けた。 最後に麗香を見ると、その目が僅かに見開かれた。「榊原様?」 麗香が呼ぶと、老人は我に返ったように瞬きをした。「失礼。少し、驚きました」 「榊原様は、私をご存じなのですか?」 「あなたを、ではありません」 榊原はゆっくり首を振る。「しかし、よく似ておられる」 麗香の指が、膝の上で僅かに動いた。「……母に、ですか?」 「ええ」 それだけ答えて、榊原は口を閉ざした。 清雅が静かに尋ねる。「では、やはり麗香さんのお母上をご存じだったのですね」 「知っていた、と申し上げるのが正しいかは分かりません」 「どういう意味です?」 「私は、あの方と個人的に親しかったわけではありません」 榊原は朔たちを順に見た。「ただ、あの方に関する記録を扱ったことがあります」 朔の目が細くなる。「桐生家へ入る前の記録か」 「……そうです」 「なぜ、通常の記録から辿れない」 榊原はすぐには答えない。 庭のどこかで、鳥が一声鳴いた。「御影少将。あなたは、奥様が桐生家の血を引いていないと知っても、婚姻を解消なさらなかったそうですね」 「それが何か関係あるのか」
「宮中……?」 麗香が聞き返すと、清雅は頷いた。「あくまで、可能性の話です」 御影家の応接室。 机の上には、ここ数日の調査で集められた書類と、麗香の母が遺した品々が並べられている。 朔はその向こうで腕を組み、清雅の話を聞いていた。「麗香さんのお母上の記録が、普通ではない形で途切れていることは前に話しましたね」 「はい」 「その続きを調べてみたんです」 清雅が一枚の古い記録を指した。「完全に消されているわけではない。ところどころに、別の記録を参照した痕跡が残っている。ところが、その参照先が通常の華族関係の記録にはない」 「では、どこに?」 「宮内に近い記録です」 麗香は息を呑んだ。「お母様が、宮中に……?」 「そこまでは分かりません」 清雅はすぐに否定した。「女官だったという記録もありません。ただ、お母上の身元に関わる記録を扱った人間の中に、宮内に関係する者がいた可能性が高い」 朔が眉を寄せる。「単なる役所の手違いではない、と?」 「僕はそう見ている」 清雅は別の紙を重ねた。「それに、例の香合も調べてもらった」 母の遺品から見つかった、花と雲の意匠を持つ古い香合だった。「意匠そのものが皇室の紋というわけではない。だから、これだけで何かを証明することはできない」 「だが?」 「細工をした工房が問題なんだ。かつて宮中や、それにごく近い家からの注文を多く受けていたところらしい」 麗香は香合を見つめた。 母が使っていた、小さな品。 幼い頃にも何度か見た記憶がある。 それが突然、自分の知らない場所へ続く扉のように思えた。「つまり」 朔が低く言う。「麗香の母親は、偶然記録が残っていない女ではない、と」 「その可能性が高くなった」 清雅が頷く。「誰かが、彼
「……御影様は、お姉様と離縁なさらないの?」 思わず零れた珠緒の声に、向かいに座る父の和馬が不機嫌そうに眉を寄せた。「今のところ、そのような話は来ていない」 午後の桐生邸。 窓の外では春の日差しが庭木を照らし、開け放たれた障子から柔らかな風が入り込んでいる。 珠緒は膝の上で扇を握り直した。「ですが、お姉様はこの家の血を引いていないのでしょう?」「ああ」「でしたら、御影家がお姉様を妻にしておく理由など……」「それを決めるのは御影だ」 和馬の声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。 珠緒は口を閉ざす。 おかしい。 こんなはずではなかった。 麗香が桐生家の娘ではないと知れ渡れば、御影朔は麗香を捨てる。 御影家が欲していたのは、古い桐生家との縁だったのだから。 それさえ失えば、今度こそ姉は、家も、名も、夫も失う。 そうなるはずだった。「それどころか……」 和馬が吐き捨てるように続けた。「御影は、あの女の母親について調べている」「……お姉様のお母様を?」 父の前妻であるその女性のことを、珠緒は何も知らない。「記録を寄越せと言ってきた。桐生へ入る以前のことまで知りたいらしい」「なぜ……?」「知らん」 茶碗が、ことりと音を立てて置かれる。「素性も定かでない女のことなど、今さら調べて何になる」 珠緒は父の顔を見た。「お父様は、お姉様のお母様がどこのお方だったのか、ご存じではないのですか?」「知らんと言っている」 返答が妙に早かった。「では、お姉様の本当のお父様がどなたなのかも?」「珠緒」 低い声に、珠緒は微笑んだ。「
翌日――。「お前の母親について、調べようと思っている」 夕食後に朔が切り出すと、麗香の表情が変わった。「お母様を……?」「ああ。お前の真の父親についてもだ」 麗香は何も言わなかった。「知りたいか」「……」「お前が望まないなら、調べない」 麗香が驚いたように朔を見る。 やがて、胸元で重ねていた指へ視線を落とした。「……怖くない、と申し上げれば嘘になります」「ああ」「けれど」 ゆっくりと顔を上げる。「知りたいです」 その声に、迷いは残っていた。 それでも麗香は、はっきりと言った。「私が誰の娘なのか。お母様が、なぜ何もお話しにならなかったのか」「分かった」 朔は頷いた。◇ 御影家の書斎で話を聞き終えた清雅は、椅子の背へ身体を預けた。「人探しは外務省の仕事ではないんだけれどね」「お前は顔が広い」「便利屋扱いされている気がするなあ」 口ではそう言いながら、清雅は既に持参した手帳を開いている。 朔は自分の作戦を告げた。「桐生家へ正式に記録を求める」「素直に出してくれるかな」「出さないなら、それも手掛かりになる」 清雅が口元を上げる。「なるほど」「それとは別に、お前の方でも調べてくれ」「分かったよ。戸籍だけでなく、華族関係の記録も当たってみよう」 清雅は手帳へ何かを書きつけながら、ふと顔を上げた。「ところで、離縁はしないんだね?」「しない」 即答すると、清雅が目を瞬き、そして笑った。「何だ」「いや。以前より答えが早くなったと思って」「何の話だ」「運命の番と麗香さん。どち
翌朝になっても、麗香の中で何かが変わったという実感はなかった。 鏡に映る顔も、黒い髪も、香りを持たない身体も昨日までと何も変わらない。 ただ、自分が誰の娘なのか分からなくなった。 それだけで、足元にあったはずの地面が、音もなく消えてしまったようだった。「お母様……」 麗香は母の白磁の香炉を手に取った。 淡い桜の枝が描かれた、小さな香炉。 母が自分を愛してくれていたことだけは、疑わなくていい。 けれど、考えてみれば。 麗香は、母が桐生家へ来る以前のことをほとんど知らなかった。 母の生家。 幼い頃の話。 どのように和馬と出会い、妻となったのか。 尋ねたことがなかったわけではない。 けれど母はいつも、どこか寂しそうに笑って話を逸らした。 そして和馬もまた、麗香へ母のことを語ったことなど、一度もなかった。 ――私は、何も知らなかったのですね。 母のことも。 自分自身のことさえも。 扉が控えめに叩かれた。「麗香姉様?」「小夜さん」 入ってきた小夜は、麗香の顔を見るなり眉を下げた。「お加減はいかがですか」「大丈夫ですわ」「……昨日から、皆にそればかりおっしゃっています」 麗香は答えに詰まった。 小夜は麗香の隣へ腰を下ろす。「姉様。私は、よく分かりません」「何が、でしょう」「麗香姉様が桐生家の血を引いていなかったからといって、それで何が変わるのです?」 麗香は瞬いた。「だって、私に勉強を教えてくださったことも、お母様の香箱を探してくださったことも、全部なくなるわけではありませんもの」 あまりに真っ直ぐな言葉だった。 麗香は微笑もうとして。 うまくできなかった。「ありがとうございます」「それに」







